昭和47年02月23日 月次祭



 信心に迫力が出て参りました。おかげを受ければ受ける程いよいよ有り難い、または楽しい信心がそれが一つの迫力にまでなって高められてくる。私は金光様の御信心をさして頂く内容が、そういう内容を持った信心でなからなければ、いわゆる駄目だと思います。ただ悩みがあるから苦しいから、というのを時に一生懸命まぁお参りをして来る。始めの間は何が何やら分からん、ただ苦しいから参ってくる。
 話を聞いて少しは心が楽になる。そこから一生懸命お参りをする事だけによってでも、お取次ぎを頂いてお願いをして参りましておかげを頂く。そういうただ信心は例えば一般でありますし。そういう信心は多いのですけれども、そういう信心では値打ちがない、価値がない信心のね。苦しいからね悩みがあるから、信心をいよいよ迫力を持った信心をさしてもらう事と同時に、おかげを受けて信心が段々ね、有り難いものに育って来る。有り難いものに信心が成長してくる。
 それから有り難ければ有難いだけ、おかげを受けておればおかげを受けておるほど、いよいよいわゆる迫真の信心ね。いわゆる真に迫った有り難い日々が有り難い勿体無いが、信心のいよいよ稽古を限りなく続けさして頂く事が楽しいのだ。有り難いのだと言う信心が内容の信心でなからなければ駄目です。本当に駄目です。命はない。何故かと言うとね、それではねいわゆるあの世にも持っていけ、この世にも残しておけると言うものに成らんからです。
 今日中はお参りが大概子供の入信、そんな事でお参りが新しい方達がいくらもあります。それこそ本当に一生懸命参ってきます。それになるほど神様がある息子さんが、大学受験する事のために毎日参って来る。一日何かでお参りできなかったら。例えば去年も落ちとる、今年はどうでもと言う訳で、まぁ合楽の金光様にお参りをしてと言う事です。それで毎日これから2里ぐらいありましょうかね。乗り物の便利の悪い所ですけれども、そうかがせきで参ってくる。
 例え一週間ばかり参って一日だけ参って来なかったら、神様がね例えば一生懸命お願いして上がれるところえあがれない。人間の力ではまぁ足はここまでしか上がらんのだ。そこの所に梯子があると上がられるようにね。あんたが毎日毎日参ってきょるのは、手が届かないところに梯子を掛けて頂く様なもんだと。だからこの一段一段が大事にされなければ、一段が抜けたらもうこんなに上がれんようになる。二日も抜けたらこうなるともうそれだけで上がられん事になるだけ。
 熱心に参ってきなされにゃとと言う訳です。はぁ熱心にとそういうもんでございましょうなぁと言う訳です。それからまた熱心に参って参りょうりましたら、ここ4,5日間えらい真剣に参って来るんです。ここに坐られると同時に涙流されるんです。先生すいませんあなたの前にこう座らせて頂くと、涙がこぼれてこぼれてしようがありませんちゅうのです。そげんあんた苦しい事があるなら、何でもお届けしなさらにゃいけませんよと言うたら、いんえその苦しい事があるけんと言う訳ではない。
 お届けせんもう今はただ子供が入試のおかげを頂さえすれば、もうそれで外に願う事も言う事もありません。それだけで参ってきょりますけれども、必ずもうその必ず御理解頂いて帰る。テープで。それで信心がね少こぅし何んか分かって来た。もうなんかこの近所までやって来ると、何とはなし心がそわそわする位にごと感じる。いわゆるお参りをさして頂く有り難さというか、御理解今迄それこそ聞いた事も無かったようなお話である。聞けば聞くほど今まで自分達の生き方が間違っておった事やら。
 知らなかった事の多い事に驚く程しである。そういう知識が少しづつ身について来る事が有り難いらしい。それが有り難いとしてお参りをして来る時に、神様も又あの氏子がもう何時になる、参って来る、もう来る頃だと思いなさるのじゃなかろうか、だからもうこのお広前で見える頃になってくると、心がそわそわそわそわしてくる。いわゆる胸がどきどきしてくる。好きな人に会いに行くごたる。それをそのまま神様の御心でもあろうと私は思う。
 先生すみませんあなたの前になると涙ばっかり流してと、はぁそげん苦しい事あるならお願いしなさいっち、何んでんお願いせにゃいかんよっち、いいえ別にお願いする事はないっちよる。もう只今の私の願いは、子供が今度大学に入試の合格のおかげを頂く事だけで、お参りさして頂いておりましけれども、不思議にここ4、5日間です、もう不思議にそのう涙がこぼれて仕様がないとこういう。これは信心が成長に言わばこう根をきった様な感じが致しますよね。
 確かにそうですね、ここにまぁ一週間も続けて参るなら、確かにここに喜びのと出る事は間違いないです。参って来て本当に話を頂くなら、いわゆる私は人相が変わるちぃう一週間ぐらいしたら、参って来る始め頂くにゃ本当ななるほど、この人相じゃおかげは受けられまいと言うな人相してますよ皆んな。内容がここへ出てきてますからね、やはり不安とか心配とかなんか苦しい難儀な問題があって、来るのでございますから、それが容姿に出てきておる。
 ところが一週間経つとね、こりゃここでこの親先生の言うたる通りにすれば、おかげが頂得るぞと言った様なものが、何とはなしに出来るらしい。それが有り難い。そしてそこに信心の芽が出る喜びの芽が出る、それこそこのお広前の近くまで来ただけでお広前が見え出すと胸がときめく様にある、ここにもうお座りさせて頂くともう涙がこぼれると言う様な神様との交流が始まる。皆さんも一応はそういう体験はお持ちであろうと思うです。ですからそれが本当に成長しなければいけんのです。
 若い者は信心に虫を信心の心に虫をいらせなよとこう仰る。若い者と言う事は青年という事でしょうけれども、私共はいわゆる真の信心を目指さしてもらうですね、金光様の御信心は真の信心を目指すのです。ですからその真の信心が、分かっていないまではまだ若いのです。分かったばかりはまだ若いのですそうでしょうが。ははぁ真の道とは真の信心とは、こういうもんだなぁと分かっただけぐらいですから、まだ皆んなが若いと言わなければなりません。
 信心が若い申します様に。10日前に15日参らせて頂いておる内にです、なるほど先生が言われる様にもう普通で出来ない事をどうでも出来る様に、上がれん所を上がれるおかげを頂きたいというて参って来たのであるから、一日も欠かしたんじゃちょうど梯子の段を欠かしたようになって上がれん。そりゃそうであろうと分かって一生懸命参って来る。お話を頂いて行く内にです、もちろんその事の願いの為だけれども、それとはもう一つの信心が心の中に育って来る。
 今日はどげな御理解を頂くだろうかと思うと、なんかかすかに心の中に楽しみが生まれて来る。これはもう理屈ではないここに坐らして頂いたら、涙がこぼれるとこう言うのである。いわゆる信心の芽が出たのである。そこでこの芽が育たなければならない、是も自分が育てとる育てようと言うただけでは育つのではない。昨日は朝の御理解に只今の御神訓を頂いた、若い者は信心の柱に虫を入らせなよという、一つは今申します様な表現で信心が、勿論これは若い青年層の方達に下さった御理解でしょうけれども。
 私共は信心が若い、まぁだ真の信心は分っとらん、お参りする事やらおお祓いやらまつもとやらはもう覚えた、それで信心が真の信心と狂いはない。そこで真の信心が分かりたいと意欲するところから、その若い信心の芽が伸びて来るのである。もう一つの若い芽がそれ程に感動する程しの心の状態と言うものが生まれて来るか、かつて信心した事のない時に味おうた事のない、とにかく何とも分からない、まぁ言うならば有り難い勿体無いと言う内容のものでしょうか。
 又は神様の喜びをそのまま私の方へ帰って来ると言うのでしょうか、涙がこぼれるほどしに有り難いと言うまでは分らんけれども、なんとはなしに涙がこぼれる程の感動を受ける。ところが今日参って来てからです、今日からぴしゃっと涙が止まると言う、どうした事じゃろうかと、それで昨日ちょっとばっかり、主人といざこざがございましてからと言う訳なんです。何っかこうお参りする、もうだからお参りもこうしょうごなぁいごたる気持ちのごたる。
 したら主人の方が、お前今日参っとらんじゃねいかっちからやかましゅうて怒った。だから今日主人の怒られて参ってきましたっちゅう。成程主人の怒られどもまいるごたるこっちゃ、神様の感動も勿論なかろうと思いますね。今日は主人に怒られてまいる、主人なお前表まで時々調子よう送って来てくれる。けれどもやっぱり子供のために一生懸命家内が参っとる、けどもここにある事でいろいろその問題があった。それでお参りしょうごとなくてぐずぐずしておったら。
 お前は今日はまだ参っとるまいがとこういうのである。いうなら主人に怒られた参った時には、もう涙がこぼれなかったとこういう。もう実に微妙なもんですね信心と言うのは、これはね本当に初心の方達のそういう叙述ない信心を、私共は本当にもう長年信心させて頂いておる者がですね、現在の自分の信心にそういうそのう初心なものと言うか、純真さと言うものが欠けておるのですから、そういう心を何時でも頂かにゃいかん。初心忘れるべからずと言うそれなんです。それがなんとはなしにマンネリになって。
 成程おかげだけは頂いておるけど又はおかげを頂くから、お参りをしておると言うだけの事。昨日は朝の御理解にね、日田の中野さんと言うここへそうですねっぇ、朝の寒中の修行の時分に10日位奥さんと一緒に参って見えたでしょうか。それから今はお参りはして見えませんけれども、金光様の御信心の素晴らしいと言う事が分かったと。俺は恐らく一生金光様の信心はするじゃろうと自分で今言われる。なんか俺はこの頃ちっと金光様に纏まったお金もお供えもしたぁい様な気がするっち言われる。
 お金は沢山持った方なんです。そういう具合に心が動いていきよる。そりゃもうお金は貯めるためには、随分と細かい事を言いながら儲け出した方なんです。らしいです。けれどもそのう例えば金の100万でも、お供えさしてもらおうと言うな心と言うものは、とても普通並大抵で出る事じゃないですよね。けれども俺りゃそういう気がするといわれる。けどもまぁだそういう気がするなら事では駄目だと、本当にさしてもらわにゃ居られんと言うごとなるまっでおかげを頂かなければいけんと。
 しかしうちの主人はなるでしょうと言うて、昨日来てから奥さんが話ょった。いまの模様なら、それはどう言う事を言うかと言うとですね、とにかく先生の言われるそのう、金光様助けて下さいと言う言葉の素晴らしのに俺りゃもう感動した。今でもねこの事を思い出すと心が弾んでくるちゅう。非常にこの鉄砲打ちが好きなんです猟が。それで何とはなしに心に引っ掛かるものが何時もあるですよね。その鳥を生き物を殺すと言うんでんから、何とはなしに心に一つの呵責と言った様なものを感ずる時ですね。
 そういう心がかすかにある時金光様助けて下さいと言うと、心が何とはなしに清々しくなるとこういうのである。何と言う金光様助けて下さいと言う言葉の素晴らしい事だろうかと、私はもうこれに感動したと言う様に誰かれに話される、金光様ちゃ素晴らしい素晴らしい宗教だと。そこでならどうとか日々金光様助けて下さいと、言う事を言いうておる筈ですけれども、そういう感動がないのです。毎日参って来るそれこそここへお参りしてくると涙がこぼれる程しにあったものがです。
 いうならば今日はずんだ心が起こらない。いうならば真から怒られてでも、怒られると参ると言う様な心の状態で、参って来ておる時には、もうそこに感動と言うものは無くなってしまって居ると言う程しに、信心は微妙なものですから、自分の心と言うものが、いかに大切にされなければならないか、それが信心であるかと言う事が分かります。先ほど三橋先生が前講を務めておられました。三橋の先生の信心ん、私は本当に何時も素晴らしいと思うです。
 今子供さんがお産をしてまだそれこそ小さい子供まだ誕生ならん前に、一人子がおったと言うのですからお婆ちゃんとしては大変忙しい外されんごと忙しい。ですから毎日に日参が出来ません、そこでです例えば先日のお月次祭に頂いた御理解が、今日尚まだ生き生きとして脈をして居る生きておる。この18日の夜に頂いた御理解が今日まで今晩までまだ三橋の先生の心の中に躍動しておる。皆さんいわゆるこの頃18日の月次祭の御理解どげな御理解じゃったよちゅうて、教えとなさる場合じゃないじゃろうかと思うです。
 その月次祭のその御理解、いわゆる手応えと言うか、日々手応えのある信心をさして頂きたいという、もう全ての事の中から手応えを感じておられる。どの様な事があってもその答として、有り難いとか勿体無いとかすみませんとかいう、答えが出て来なければならないとして、それに取り組んでおられる。そして今日の体験を又その体験を話しておられた、私は教徒新聞が送って参りました、三橋先生が昨日も一つとった、先生が先日だいそれで放送されたのが新聞に度々載って来る。
 この二回ほど載って来た。それを私読まして頂いた私も感動する。それはどう言う事に感動するかと言うとですね、もうそれは優しい女らしい言葉で表現してありますけれど、その一括り一括りがですねもう絶対この人は、慢心しとるじゃなかじゃろかと思う位に確信を持って断言して、お話をしておる事でございますね。一括り一区切りを。素晴らしいと思いました。信心はこうですとこうすりゃおかげになりますと。はっきりその断言しながらお話餌お続けておる事です。
 それがどういうところからそういう信心が生まれて来るかと言うとです、例えば自分の心の中に10日前に頂いたその御理解が、お参りは出来ないけれども、その事を日々それに取り組んでおられると言う事。そして今日はその手応えがあった一日であったであろうかではなくて、もう生活の全てその一齣一齣が、手応えであると言う事なんです。信心をさして頂いておる値打ちと言うものをそこに感じながら、日々の生活が出来ておると言うのである。
 今日は私はいわゆる値打ちのある価値ある信心を、それこそ勝ち取って貰いたいと、言う願いの元に今日はお話ししとります。価値ある信心。そこでです悩みがある苦しいと言うてお参りをして来る、信心に迫力のなるほどでる、けれどもおかげを頂いてやれやれというと、もう信心がそこに腰かけてしまう。お道の信心の内容と言うのはです、おかげを受ければ受ける程、信心が分かれば分かるほど、楽しいそれこそ有り難い、しかもそれに迫力が伴のうて来るところの信心が。
 言うならばなされなければならない内容がなからなければ、金光様の御信心とは言えないと言う、そういう信心でなからなければ値打ちはない。おかげを頂いたらやれやれになってと言った様な信心じゃ詰まれんと言う事。一生懸命お参りをさして頂いて苦しいから、まぁ始めは苦しい事の神頼みでもよかろう、そして教えを受けていく内にです、信心の何たるかと言う事、いわゆる真の信心に目が覚めて来る。そしてその真の信心が身について来る、血になって来る肉になって行く事が分かるんだ。
 手応えがあるならあるんだと。そういう信心でなからなければ価値はない。値打ちはない。金光様の信心と言う値打ちはないのだと言う訳であります。信心を進めにゃいけません。私は今日ここを5時ちょっと前ぐらいに下った、したら家内が食堂に参りましたら、こげな大きな丼ぶりにある方が親先生にちゅうて、唐芋を持ってきてやっちゃりますよちゅう訳なんです。唐芋がある私がといもなら目がない訳なんです。ほれでそんならちゅかそんままもって、おくらそんままもって来なさるですか来たの上に。
 もうそのままていうてきたげてから、茶の間さん持って行きました。してさっさとされるあれにそのうバターをつけましてね、頂くのが好きなんです。そしてそのうもうそれこそ数えてばしおるような食べ方をしておる自分にね、ちょっと恥ずかしかった自分で、まぁ本当に好きなものの前には人間が卑しゅうなるです。こりゃもう絶対そうです。あのう久留米の梅林先生なんかなかなか人格者ですよ。あの先生人格で者でここに来られると、私はいっつも説教頂く位ですあちらの。
 けれどもその甘いものにゃ目がないのです、甘いものを出すともうちかも出さん先にもう、がぶがぶ食べてしまいなさいます。もうこれは羊羹ば手を出さる時だけは、ちょっと浅ましいなと言う位な食べ方をなさいます。ほんと。もうだから好きなもの前には、人間は卑しゅうなる訳ですね。私もじゃその好きな物の前で出てきたのを卑しゅうなっとる訳です。はぁ本当にもうこれが誰か見よるなら本当におかしかろうとこう、そしたら御心眼にね丁度教祖様の奥城を頂いて。
 そこにあのう御神馬が?いである所を頂きました。ちょうど神社やなんかに参りますと、御神馬がありましょう撫ぜ馬というやつが、あれを御神馬と言う。馬のお知らせはここでは卑しい心と仰る。ある教会の先生がそのう信者を盗られたと言う訳、だから道を間違えちかあの信者は、このうどこどこのどん参ってからち言いよんなさる。大坪さんあなたはようなさるですかちいうちから私言われる。からそうですなぁち言うてまぁそれから私は、どけんかして貰ったら馬ば二匹頂いた。御心眼に。
 片一方石田さん、あのう先生も又そのうよその信者が参ってきたっちゃ、まぁそのうはぁよかがのち、好きなとき参るのがええくさっちごたる風じゃん。だからどしたんの先生はどう言う事かと言うとね、そのうまうまに関係がある信者の一人一人ちゅう事は、馬が逃げちょる。じごのうまうまに関係あるもんじゃから、その人の信者を取りにいってしょんなる、そしてそこでっま喧嘩せんばッかりの話の中に、いっちょ私行き合わせた。そしたらうまうまじゃ、だから私はそのう事をさして言うたらです。
 もうそれこそ二人ながら赤面をされながら、ほんなことえそげんじゃんのと言う事でございました。卑しい心と言う時にそれ以来 あのう馬のお知らせを頂くと卑しい心と言う事になります。けれども私はね、本当に有り難いと言う事はね、私共がいよいよ価値ある信心をさせて頂いてね、いいよいよ価値ある私にならせて頂いて、言うならば自分の信心を一歩一歩和賀心が神に近づいて行くのを信心と言うのじゃと仰るように、一歩一歩神に近づいて、和賀心を神格化して行く所のおかげを頂かなければならない。
 そうするとどう言う事になるかと言うと、もし私が神格化しておる私であるとするならば、その卑しい馬ももう既に御神馬だと言う事なのです。私はそれを頂いてはじまったいと思うた。もう本当に信心がね今私とここに佐田さんがおんなさるが、同じ汚い事をしておると致しましょうか、卑しい事をしとると致しましょうか、だからこの人のとは卑しいばってん、もうこっちんたぁもう御神馬じゃ。いやそりゃそうです私が大臣になると家の奥様は大臣様の奥様ですから。
 そうでしょうが私が大将になりゃ、はぁ大将の御長男ですから若先生は、それと同んなじなんですよ。だから私が生神様になりゃ、ほう生神様のだから奥様じゃから、なんなに姫と言う事になるんです。教祖さんの奥様にゃ全部信、奥様のとこの子供様にでもね、何々の姫何々の神と言うて神の神格を、神様は下さっておるでしょうが。教祖様がね生神様になられたら奥様もお子さん方も、なんなんの神と言う様に神格化しておいでられる。それは卑しい事であっても普通から言うたら。
 けれどもねそれはほぼ神様が欲しておられるんだと言う事なのです。私もそれを頂いてね、どうぞ本当にこげなことしちゃ出来んとか、かもうちゃ出来んと言う事は絶対ないですね。金光様の信心は。生神様じゃからね生神様と言う事は、人間がそのままね神格化して行くというのですから。神格化して行きゃこのなかから、神格だけとりゃええちゅことはないのです。はりゃなかなかいもうしかららがくがもうたもうし、男の子しから女のごしんです。けれどももうそれは神様が求め給うものであると言う事です。
 汚いものじゃないと言う事なんです。私はその教祖様の前の御神号を御心眼に頂いてですね。本当にこりゃ本気でいよいよ神格化して行くほどしのね、和賀心がいう神に向こう信心をさして頂かなければならないなぁと思うた。私の修行時代にはかせて頂いておる敗れた靴は、家内が私それ以後見ませんけれども、ちゃんと直しておるそうです。修行中に夏も冬もなかった夏服一枚で、いわゆるつづくりだらけの洋服はちゃんとこれは、取っとかんならんとこれはもう家の宝と言うて家内が直しております。
 やぶれ靴がなんでしょう敗れ服が何の役にたちましょう。けれどももし私が価値ある信心をさしてもらって、価値ある私になった時にその破れ靴も破れ服もそれは尊いものに成って来るのですよ。私が価値ある私にさえなれば、私が毎日ここに紙きれの様なものに控えておるそれが、もうそれこそ金では買えない程しの素晴らしいものに成って来るのですよ。いわゆる私自身が価値ある私にならなければならないと言う事なのです。値打ちのある信心をさして貰わなければならない。
 それがですただ苦しいから悩ましいからと、一生懸命打ち込んだ信心でより良いおかげを受けたで、留まってしまう様な信心では値打ちはない。そこからっ開けてくるところの心の信心が、いよいよ助かって行く事の喜びが楽しみが、いよいよ信心に白熱化してくると言うおかげを頂いて行く時にです。和賀心がいよいよ神に向うていく信心が身について来るでしょう。そういう光を持った信心が有り難いのです。後ろに孔子と言う偉い方が何千年前におられました。
 孔子が書き残しておられるものの中に、世界を収めようと思うならまず自分の国を治めてからじゃと仰った。自分の国が治めたいと思うならまず自分の村や町が治め得てからだと。自分の村を治めたいと思うならばまず自分の家を治め得てからだと。自分の家をいよいよ治めたいと思うなら、先ず自分自身の心を収めてからじゃと、言う意味の事を教えておられます素晴らしい事です。これはこれはもう信心だけの事じゃありますまいけれどもですね、結局結論すると心に起因して来るところなんです。
 高橋正雄が見る事見る事自分を見る事。と自分自身を心をいよいよ見る事を教えておられた。甘木の初代が我良しと思う心はわざとしって、夜ごと日ごとに戦へていけという、自分自身の心を中心に置かれた。先日甘木の平田会長がお話の中にも、信心が分かった信心が分かったと言う事は、自分自身が分かる事だと言っておられます。私もそうです。ですから私の心ひとつ収まらずして家が収まる筈はありません。家が収まらずしていてさぁ世界のてんがのと言うとっておってもです。それは空論にしかすぎません。
 今の政治家の人達も例えば、どういう素晴らしい合点の行く話をなさってもです、自分自身の心一つを収まらない政治家が出てから、いまも例えば御国の治まる筈がありませんよね。そういう信心とはそういうところに元づいてのこと、そこで心を大事にしなければならない、先日矢次さん所のお祭りの時に中心と言う事を頂いた。中と言う字を書いて心。それをこう一つにすると忠義の忠になるですね、忠勇の忠になる。神様のね言うなら一番の忠義もの取り立てて頂きたい。
 神様に本当に喜んで頂く氏子にお取立て頂きたいと願うならばです、先ず心持を中心にするものでなからねければ駄目だと、一生懸命お参りが出来るどんどんお供えが出来ると言う事で、神様が喜びなさるのじゃない。自分自身の心得本気に見極めて、自分自身の心に取り組むんでね、全ての事を自分の心に持って来るところの、生き方を持ってして行くならばです、必ず神様の忠信になる事、神様のお喜び頂ける氏子にもお取り立が頂けれるという御理解を頂いた。
 ですから本当にねなるほど難儀なから苦しいから、お参りをしておるのだけれども、そうしておる内におかげを頂いたらやれやれではなくて、そこから本当の信心が眼を開か負ければならない。真の信心がそこから育って行かなければならない。若い者は本心の柱に虫がしないじゃろうか、はぁ有り難いの勿体無いのと言よるけれども、信心が若いから若いから虫が付きやすい。こりゃ植物でも同じね目が出ると虫が付きやすい、そういう時にですその虫を取り払おうと頂く所の、おかげを頂かなければならない。
 私は昨日そう言うのをお話させて頂いとりましたら、丁度お話半ばに久留米の佐田さんがお知らせを頂いておられた。それには福寿餅と頂かれた、みんながおかげを頂きたいおおかでを頂きたいけんど、福寿にまでおかげを頂きたい。大きな福が頂きたい大きな寿が頂きたい、祝いめでたいと言う様なおかげが頂きたい。それにはねそういう心持が必要なのだと言う事なんです。どうぞ億万長者にならして下さいならして下さいというて、地団駄踏んで願ってもです。心がいつも貧乏餅ではどうこういかんでしょうが。
 福寿餅の反対の貧乏餅では、貧乏神餅、貧乏神の様な心持ちじゃ、こらで億万長者にならして下さいていたって問屋が卸さないと言う事。だから自分の心がいつも福寿でなからなければならないと言う事。そこで私共やはり人間ですから、腹も立ちゃいらいらもする。心配もありゃ不安もある。そういう腹が立つ時にですですて、いわゆる金光様ぁ助けて下さいなんであります。今の私の心の中にいらいらしていらいらの虫が着いとります。今は本当に情けない虫が着いとります。
 そういう虫をです着いておるのですから、そういう都度都度に金光様ぁ助けて下さいという私は信心がです。それが払われていくところに今まで不安であったのが安心になり、いらいらしておったのが穏やかになり、腹立ち腹が立っておった事柄が、いやむしろこれはお礼が申し上げねばならないような事に、腹を立てておったと言う事が分かって来る。金光様ぁ助けて下さいの中から、虫が取り払われていく。ですからその若い時の虫は取り払らわれていくのですから。
 取り払わればっかりはもうおのずと成長する事はもう間違いないです。ですから今申します様に成長するおかげを頂くためにです、福寿餅から反対の心が起こった時です、いらいらとか腹立ちとかありとあらゆる、おかげを受けられない心が心の中にはびこった時です。金光様ぁ助けて下さいと言う生き方で成らしてさえ頂くならば、必ず真の信心は伸びて行くのである。
 虫が取れるのですから。この虫がこうこうして着いて来る時に、もう痒いの痛いのと言うてからぴしゃっと信心止めてしまう惜しい事ある。それこそにとうわかき構てにゅうすの皮くらいにおかげ頂いたのが、また元のね貧乏神の様な神になる顔になってしまう。惜しいでしょう。ですからここんところはです私共は金光様助けて下さい、という純真なね心で縋っていくそこから虫が取り払われていく。
 そこから信心がこりゃもう自ずと成長して行く。いよいよ楽しい有り難い勿体無いと言う迫力のある信心が。いわゆるそれこそ悩みがあるから参っとるんじゃない、苦しいから参っとるのじゃないおかげを頂いておるから。有り難い勿体無いでお参りの信心が出来ておる、信心の稽古が出来ておると言う事になる。そういう信心でなからなければ値打ちはないと言う事を、今日は皆さんに聞いて頂いた。
 いわゆる価値ある信心そして私は価値ある私になった時に、私がね私が本当に価値ある私になった時に先ほどから申します。破れた靴また破れた又は洋服がですそれこそ宝物になるでしょう。私が紙切れに書いたこの毎日書き溜めておるそれがです、もう銭金では買えない程しの尊い価値あるものになるでしょう。私が価値ある私になる時に家内が子供が、価値ある人に認めて頂くようなおかげに、なって来るのが信心なんでございます。
   どうぞ。